あめりか川柳


森脇 幽香里 編著「あめりか川柳」から


体温計くわえ何だかうれしそう          中津 優子

 その情景がすぐ浮かんで、私のこころを捉えました。感じたままが、そのまま、すらっと詠まれて、なんの変哲もないようですが、病気を意味する体温計と、それをくわえている口もとの表情との、対象のおもしろさが、作者の心を動かして出来た一句と思います。「うれしそう」というところに、曰く言いがたい作者の川柳的重いが感じられて、人間の面白い一面を、うまく表現していると思います。


冬至過ぎ季節も春へ向きを変え          平 冬子

 冬至を境に来る春は、当然のことと云えばそれまでですが、この句の観どころは、中七、下後の表現にあり、特に、下五の、「向きを変え」という、作者の楽しい考え方にあるのではないでしょうか。ごく当たり前のことでも、その表現次第、言葉の用い方次第で、川柳らしい、ユーモアのある句に仕立て上げることが出来ます。なお、「季節も」の「も」には、複数の含みもあり、いっそう、句の巾を広くしていると思います。


おくれてる焦りは知らぬ赤信号          福岡 千鶴子

 信号に心を入れてみるのも、川柳するものの、楽しみの一つといえましょう。心はいらいらしていても、人の焦りなど知る筈もない赤信号と思えば、腹もたたず、じっと待つほかはありますまい。人の心のうちまでは読めない対人関係におきかえてみても、頷けるものがありはしないでしょうか。人それぞれに、それぞれの思いや、都合のあることを、お互いに思いはかるだけの、心のゆとりが欲しいものです。


ひばりには雀の知らぬ高い空           田城 藤枝

 世の中、それぞれの立場々々で、視野も、角度も、異なることを、この句は風刺しており、読む人に、ある安らぎを与えていると思います。雀には雀の社会があり、空高く飛ぶひばりには、雀の知らぬ世界のあること、これみな、自然の仕組みに他なりません。もちろん、人間社会も例外ではありません。かと言って、雀の知らぬ世界が、必ずしも幸福であるかどうか。「知らぬが仏」という幸福のあることも、見直してみたいところであります。


ここだけの話を昨日聞いており          前田 昭洋

 ここにも、人間社会のおもしろさがあるのに、気づきます。よく「ここだけの話」と前置きして、さも大事そうに話すのを聞くことがあり、「その話ならもう聞いている」と思うことが、しばしばあります。でも、大事そうに言われては、もう聞いていますとも言えず、ただうなずいて聞いておく他はありません。表現上の省略が見事に成功している一句だと思います。

思考するデスク睡魔が笛を吹き          吉村 美和

 一読してすぐ「なかなか面白い句だな」と思いました。感じとしては、デスクも机も同じ三文字なら、机の方が、日本家庭の情景が出て、なお良かったと思いますが、そこは英語の国、デスクが自然なのかもしれません。それはともかく、この作品の観どころは、下五の「笛を吹き」にあります。この下五次第で、平凡になるところを、よくきちっと引きしめ、同時に、面白い句にしています。


背を押した子に押されてる医者通い        粋華 智恵子

 育てた子に、年を取ってからの体を案じられる幸せが、この一句を生ませたものと思います。子どもの頃は、親の気も知らず、なかなか医者に行ってくれなかった子に、今度は、医者行きをやかましく言われている親です。親は子を案じ、子は親を案じる。この情愛は美しく、また、人間の哀愁でもありましょう。背を押し、背を押されるという、簡単な表現の奥にある、目では見ることの出来ない愛情こそ、文芸の根源であることを忘れてはなりません。


笑うのか泣くのか葉っぱ風にゆれ         林 すみ子

 秋の感傷がそうさせるのか、この十一月は、揃いも揃って、静かに心揺さぶる句が多かったと思いますが、この作品に至って、きわまれりの感じです。笑っても泣いても、ものがなしい秋の風であり、葉ずれの音であります。とどまるすべもなく、枯れ葉は泣くように秋を奏でながら、一枚、二枚と散って行きます。地球の上に冬が来る。人をしばらく押し込める冬が来る。そんな寒々とした空気をひんやりと感じさせる秋を、総まとめにしたこの一句であります。


上記はは1984年2月号から1988年新年号までの「北米川柳」誌に掲載の「鑑賞席」をまとめた森脇 幽香里編著「あめりか川柳」の中の179句からほんの一部を森脇幽香里監修のもと、転載したものです。


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